ごくらく日誌 「奇声」

 ハナコさんは時々、大きな声をあげる。その声は言葉にならず「キヤ〜アアア」だったり「ニヤ〜アアアン」だったり。意味のある言葉ではない。つまり、奇声なのだ。けれど、その奇声には感情がこもっている。その感情は怒りであることが多い。
 怒りのこもった「キヤ〜アアア」が幾度となく立て続けに発せられると、それを聞く側にも同様に負の感情が生まれる。介護を生業としている僕達ですら心の中に渦巻き始める負の感情に平静が保てなくなる時があるのだから、他のお年寄りはなお更である。
特に血の気の多く、喧嘩っ早いテルさんはハナコさんの奇声を聞くや「なんね!あんた、馬鹿やないね、うちは天皇皇后やけんね!東京には行かんけんね!」とこれまた意味不明の大声で受けて立つ。
時には、「キヤ〜アアア」と絶叫するハナコさんの横に飛んで行き、拳を振り下ろそうとすることもあるので、職員が間に割って入り仲を取り持つこともしばしば。そんな関係が続くと、ハナコさんもテルさんの声を聞くと機嫌が悪くなり絶叫するといった悪循環がめぐり始めるのである。
奇声でしかコミュニケーションをとれぬハナコさんと付き合っていくうちに、奇声には意味のあることに気がつき始めた。自分で身動きとれぬハナコさんは他人の手を借りねば生きていく術がない。長時間座り、姿勢が保てなくなると「キヤ〜アアア」。便通が滞りがちとなり、お腹が張ってくると「キヤ〜アアア」。下剤を服用しお腹がグジグジしてくると「キヤ〜アアア」。寝床で目が覚め起き上がりたくなったら「キヤ〜アアア」。思うに任せないので、あの絶叫にはいつも怒りの感情がつきまとっていた。
意味が分かれば対策を講じることができる。ハナコさんが生理的に快適であるように心がける。便秘していないか?お腹はすいてないか?姿勢は楽か?暑くないか?そう配慮するうちに奇声はその数を減らしていった。
テルさんにも変化があった。時たま、発せられる奇声にあまり怒らなくなった。2年近く一緒にいることで、「キヤ〜アアア」という声にテルさん自身が慣れてしまったのである。


地域のミニコミ誌「まい・たうん」に所長の村瀬が連載しているものです。